「曖昧さ」や「余白」ってすごく大事じゃないかなぁって最近よく思うんです。
21世紀は、VUCA(変動性、不確実性、複雑性、曖昧性)の時代、予測困難な時代と言われます。
そうした時代を生き抜く若者を育てるための教育が求められています。次から次へと改革プランが提示され、それらは極めてロジカルに設計されています。様々な行程が隙間なく埋め込まれ、現場ではその対応に膨大な時間と労力を割いています。
そうした流れの中、学生への教育もあらゆる側面で「具体的に」「可視化する」ことが推奨されています。
授業ひとつとっても、教材や指示は具体的で懇切丁寧になっていく方向で動いています。学生が理解しやすいように、活動しやすいように。
でも、そのことは、見方を変えると、「自分で考えなくても理解できる」「自分で工夫しなくても活動できる」とも取れます。
結果的に、主体的・自律的な学習者の育成のための教育改革は、それとは逆行するというジレンマに陥ってしまいます。
そのことの一旦は、以前ブログでも紹介した調査結果にもあらわれているように思います。
例えば、提示された「問題や指示」が曖昧なら、そのままでは解決すること・動き出すことが出来ないので、まず何が問題なのか、何が求められているのかを同定しないといけない。
曖昧さを具体化する過程で思考が動き出すので、この過程を奪ってしまうと、頭を動かす必要が無くなってしまいます。そのことを「学習」した学生は、与えてもらうことが当たり前になり、指示が曖昧なら不満を覚えるようになります。
このことも、以前のブログで紹介した調査結果にあらわれているように思います。
大学改革にせよ学生教育にせよ、主体性を本来発揮すべき人ではない人が「余白」を全て埋めてしまうことによって、当人が思考する機会を奪ってしまいかねません。しっかり考える(思考力を育む)には、曖昧さや余白(時間・空間的余裕)が必要です。
学校(school)の原義は、ギリシャ語のschore(シューレ)にあり、それは「余暇」を意味しています。
もちろん、当時の意味通りとはいかないと思いますが、じっくり考えたり議論したりするための余白を担保することが今の学校に最も必要なことだと感じずにはいられません。