人生考路

個人と社会のウェルビーイングを高める教育と学びを探究する

親父へ

昨日9月8日(木)の11時11分に、入院中の父親が永眠しました。86歳でした。

 

7月中旬に肺炎+膿胸で緊急入院して、すぐに系列の急性期病院に転院して緊張感のある状態が続いていました。高齢の母は耳がかなり悪いこともあり、病院とのやり取りは全て僕の方で対応してきました。面会も出来なかったので、ほぼ毎日のように来る病院からの連絡を整理して文章にまとめて、家族のグループLINEに伝達するという日々でした。転院の際に病院に行けたのは僕だけで、そこで肺炎に苦しむ父親に直面しました。ストレッチャーで運ばれていく際、僕の手を離さず、呼吸が苦しい中で「つよしのこと、忘れへんからな」っていう言葉を聞いたのが、結局、最期の言葉になりました。

 

入院して約1ヶ月、少しずつリハビリもし始めていたようで、急性期病院からリハビリ中心の病院へ転院する手続き等も行っていたのですが、その直前に同室者からのコロナ罹患。転院は叶わず、敗血症や菌血症なども生じて、再び命の危険に瀕することになりました。この間も会うことは出来ない中で、いざと言う時の延命処置や心の準備を何度もしました。コロナ陽性期間中に亡くなった場合、どのような対応になるのか調べたりして、それだと全く会えないまま火葬場に直行になる可能性が高いということを知りました。そこは何とか切り抜けて欲しいと願うばかりでしたが、何とか切り抜けてくれました。大した生命力です。

 

肺炎、コロナを何とかくぐり抜けたのですが、その処置の反動に、元々の糖尿病も重なってか、急性腎不全になりました。尿が出ない状況が続きます。水分や毒素を外に出せないので、尿毒症も出て、意識も朦朧とした状態になります。そして、8月24日、系列の緩和ケア病院に転院します。

 

そこからも毎日のように主治医の先生から連絡を受けながら、透析をするかどうか、どこで成否を見極めるかなど、難しい状況が続きます。結局、一度チャレンジしてみようということで、透析も行いました。実際、自尿の量は少し増えて、腎臓の不純物も半分ほとは除去出来たという報告を受けた矢先でした。

 

一昨日9月7日(水)、僕は講演で名古屋に出張中でした。壇上で講演中にAppleウォッチに何度も病院から連絡が来て、気が気ではありませんでした。講演後に電話すると、「お父さんの心臓が止まりました」という第一声でした。「人工呼吸器を挿入して今は戻っています」と続き、ひとまずホッとしました。ただ、5~10分ほど呼吸が止まっていたので、非常に厳しい状態とのこと。

 

僕はその後、もう1つ講演をして帰路につきます。途中で看護師さんから電話があり、これから病院に来てもらえませんかということでした。この病院では、対面での面会は1度だけ、かつ10分だけというルールでした。どこでその権利を使うかも悩ましい問題でしたが、ここしかないかもしれないということで、そのまま母親と妹をそれぞれ迎えに行って病院に向かいました。既に意識不明の状態でしたが、僕らの声かけに時折目をガッと見開いて何か言おうとしていました。人工呼吸器を口から入れているので、言葉を聞くことは出来ませんでしたが、何とかコミュニケーションが取れたのではないかと感じています。

 

一旦帰宅し、夜中に連絡は来なかったので、明朝は地域連携プロジェクトの打合せのために関大梅田キャンパスに行っていました。が、着いて10分くらいしたら、看護師さんから「心臓が止まりそうです。すぐに病院に来てください」ということで、妹と母に連絡して、すぐに病院に向かいました。既に心拍数は0を示していて、人工呼吸器のみが動いていました。僕らが着いて、スイッチを止めて、息を引き取りました。

 

ダラダラと書きましたが、この間の経緯を留めておきたいとの思いです。

 

以下は、身内の恥ずかしいところを書いてしまいますが、これも自分なりの整理なので、ご容赦ください。

 

父親との関係はあまり良いというものではありませんでした。小さい頃から母親に強くあたる父親を何度も見てきたし、少しトラウマにもなっています。お金にもルーズで、元々貧乏だった中で、個人的な借金を作ってくるので、さらに過酷でした。高校1年生の頃から実家の店を手伝い、売上や家計簿を付け、あー家ってこんなにお金ないんかーと思わされ、自分の学費はもちろん生活費も工面しなければならなかったので、大学院博士課程を修了するまでほぼ週7(+ダブルヘッダー)でアルバイトでした。でも、お金や環境を理由に自分の人生を諦めたく無かったので、本当に死に物狂いでした。気づけば僕は大学教員になり、妹も銀行員(管理職)として働いています。超反面教師によって、自分でやるしかない精神、レジリエンスはがっつり身についたので、その意味では感謝なのかなと思います。

 

なので、あんまり良い思い出が出てこないんですが、昨日実家で遺品整理をしていたら、地域の見守り隊をやっていたり、こまめに日記を書いていて、孫のこととかを書いていたり、僕の名刺を大事そうに持っていたりして、あーそういう一面もあったんやなって感じました。僕も自分の人生でいっぱいいっぱいだったこともあって、なかなか実家に帰って一緒に酒を飲むといったことも出来ませんでした。もう少し、もう少しだけでも一緒に過ごす時間を作っておけば良かったなと今は思います。

 

何だかんだいって、親父がいなかったら僕はいないわけで。その意味では、やっぱり感謝しかないかなって思います。

 

親父、今までありがとう。おつかれさま。あの世でゆっくり休んでな。俺らは元気に頑張るから。

 

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(親父80歳の誕生日祝い)