人生考路

高等教育開発を生業とする青年心理学者、山田剛史(京大准教授)のブログ

恩師、溝上先生との出会いと感謝

あさがおMLなどで報告され、多くの方がSNSでも話題にされていますが、同僚だった溝上慎一先生が京大を退職され、神奈川にある桐蔭学園に移られました。

 

その経緯を記した新書の「あとがき」には、僕とのことについても触れてくれています。その内容は、以下の通りです。

 

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教育アセスメント室の仕事を一緒にしている山田剛史准教授。山田さんは、非公式には私の一番弟子にあたる。彼が大学院修士課程の時に知り合って、その後インフォーマルにずっと心理学の指導をしてきた。私が講師の時、彼は博士課程を終えたので、教務補佐員としてセンターに呼んだ。その後、島根大学愛媛大学で講師、准教授を務め、京都大学に准教授として戻ってきた。


彼との笑い話がある。彼が教務補佐員のとき、「今日は徹夜でこの報告書の原稿を仕上げような」と言って、ホテルに一緒に泊まり込んだことがある。夜食を買いにコンビニへ行った。彼が「徹夜するなら眠眠打破を飲んで気合いを入れましょう」と言うので、それを買って一緒に飲んだ。そういうものを飲み慣れていなかった私は、飲んだ直後気分が悪くなり、部屋に戻ってそのままバタンと倒れて寝てしまった。彼は自分の部屋で翌朝まで頑張った。朝私の部屋に来た彼は、「あれー、寝てる」と言って呆れていた。彼と酒を飲むと、いつも思い出す忘れられない二人の思い出である。

 

もうあれから二〇年。山田さんも全国区の一人前の研究者になった。もう少しそばで指導をしてあげたかったが、その必要はもうないだろう。彼の活躍を心から祈っている。

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素直に嬉しいです。このあとがきで僕と溝上さんとの関係を知った方もおられるようですが、自分的にももう少しこのブログで振り返ってみたいと思います。

 

★出会い(2001年の夏)

僕がM2の時。正確にはM1の6月に連絡するも、オランダにサバティカルに出たばかりで会えなかった。(溝上さんの研究との出会いについては、京大の図書館が刊行している雑誌『かりん』(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/229501/1/010.pdf)のpp.12-13に書かせてもらっています)。溝上さんが帰国後、教育心理学会のシンポジウムに登壇していて、僕はフロアで聞いていた。質疑応答の際、フロアの先生からの質問にフリーズしていたのを見て、何を血迷ったか僕が手をあげて「今の質問はこういうことですよね。溝上先生はこう答えたいのではないでしょうか」と話し、溝上さんは「そうそう、その通りです」と。その後、僕のところにお礼を言いに来てくれた。そこで、僕が(1年前に連絡していた)山田です、と。

 

今思えば、何と生意気な院生だったことか。でも、溝上さんに与えた第一印象のインパクトは大きく、その翌月から、非常勤先のTAをやらせてもらうことになり、毎週授業後に阪急の駅構内でお昼を食べながら色んな話を聞かせてもらった。

 

★運命の歯車(2001年の秋)

僕は就活をし、内定もいくつかもらっていた。修士で終えて働くつもりだった。経済的な余裕は元々無かったし、何より博士課程に行く力はないと思っていた。

 

M2の11月、毎回出ていた梶田叡一先生の主催する自己意識研究会にいつものように参加し、懇親会で溝上さんに「今までお世話になりました。研究は修士までで就職します」と話した。怒られた。「何を言ってるんだ!研究の道に進むと思って、こっちは待ってるんだ!」と。その時、結構な力で殴られた左肩の感触を今でも覚えている。

 

出ていた内定を辞退し、そこから博士課程にチャレンジする意志を固め、進学することになった。

 

★ひたすら研究に打ち込む(2002年4月~)

博士課程進学後は、腹を括ってストイックな院生生活を送ることになる。経済的事情から3年での学位取得はマストだったので、かなり飛ばした。

 

その間も、溝上さんからは常に刺激や支援を受けていた。京大センターでRAや技術補佐員などの立場で仕事をさせてもらったことも、その後のキャリアに影響を与えている。丸3週間溝上さんの家に住み込みで仕事をしたこともある。そんな経験をしたのは後にも先にも僕くらいだろう。

 

僕より優れた院生は山ほどいただろう。でも、溝上さんは僕に関わり続けてくれた。いつも、「見る人は見てるから、腐らず頑張ろう」と励ましてくれた。週7でバイトをしながら、死に物狂いで論文を書き、投稿し、それらを博士論文にまとめ、公約通り3年で修了した。壮絶だった。いま思い出しても吐き気がする。

 

★高すぎる壁(2005年4月~)

大学院修了後は、京大センターで教務補佐員としてお仕事をさせてもらった。その経験が活きて、島根大学愛媛大学と地方国立大学の大教センターでおよそ9年間奉職することになった。

 

大学院時代も基本的には論文を見てもらうなどの細かな指導を乞うたことはなかった。あまりに自分にとって影響力が大きすぎて、飲み込まれてしまって、自分らしさを見失ってしまう恐怖心もあった。自分が良いなと思いついたことが、もう1段2段上の水準から位置づけられてしまうことも実際しばしばあった。

 

8歳しか違わない溝上さんの研究力、執筆のスピードは凄まじく、自己嫌悪に陥ることはしょっちゅうだったし、彼の存在がある限り、どれだけ頑張っても離れていく無力感もあった。物理的に離れたのは良かったと思う。地方に行って、何にもないところで、一から自分なりの仕事を創り出した。その中で、それまでの自分を相対化出来たし、(ずっと京大にいる)溝上さんが経験していない世界を体験出来た。結果、彼の脅威に脅かされる日々は減っていった。

 

それでも僕を育ててくれたことへの恩義は忘れたことは無かった。僕に出来るお返しは、研究者としてしっかりと成果を残すことであり、そのためには、地方にいながらも都市部との接点を持って全国的なフィールドで活動することを常に意識していた。

 

★同じ職場の同僚として(2015年4月~)

有り難いことに京大に戻る機会、溝上さんと数メートルの距離で働く機会を再び得ることが出来た。一緒に仕事をするようになって、自分がこの9年で成長したことを実感することが出来た。仕事に関して言えば、「山田くんのようにはよう出来へんわ」とよく言われた。

 

ただ、研究面での距離感は依然として大きい。自分が力を入れてきたことは無駄だと思っていないので、以前のように自信を喪失することはなくなったけれど。京大では、ここをしっかり強化したいし、その意志を持って異動を決心した。

 

結局、一緒に仕事が出来たのはほぼ3年半。かなり前から異動の話は聞いていたので(おそらく一番早く伝えてくれた)、心の準備をしつつ、急増する学内業務に対応し、自分が回せるよう体制を整えてきた。その間も、色んな話をした。正直、仕事の話はあんまりしていない。研究の話、中学・高校の教育改革の話など、溝上さんと話をするとそのスケール感にいつもワクワクして、よし頑張ろう!という気持ちになった。

 

 

溝上さんは、常に僕の前を全速力でかけていく。その背中を必死で追いかけながら、気づけば自分もそれなりに走れるようになった。僕にとっては、手取り足取りの指導より、この形がとても気持ち良かった。

 

今回の異動(挑戦)については、色んな形で個人的にも話を聞かせてもらっていたし、100%納得のいく決断だと思っている。寂しさはない。これからが楽しみでしようがない。僕は僕で挑戦をしていく。めいいっぱいやりたい。そして、ちゃんと溝上さんにも届くような成果を出していきたい。

 

もう出会って20年になるのか。

 

溝上さんと出会わなければ、激をかけてもらわなければ、僕の大学教員としてのキャリアは間違いなく無かった。どうなっていただろうと思うとゾッとする。本当に感謝してもしきれない。

 

 

ここまで関わり続けてくれて、育ててくれて、本当にありがとうございました。

 

京大での長らくのお勤め、本当にお疲れさまでした。

 

そして、これからの新たな旅立ちが素晴らしいものになりますように。応援しています。

 

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(横浜に出発する前の最後の夜。よく連れて行ってくれたBARで語り合って、別れる直前の写真)