人生考路

個人と社会のウェルビーイングを高める教育と学びを探究する

移行においてギャップは不要か?

かねてより感じていることですが、学校間あるいは学校から社会への移行(トランジション)において、ギャップは不要でしょうか?

 

たとえば、小1プロブレムや中1ギャップ、高1クライシスなど、学校種の変化(移行)に伴って生じる様々な問題を表す俗語があります。

 

高校から大学にかけて同様の表現はありませんが、昔から新入生の「5月病」や「燃え尽き症候群バーンアウト)」などは言われてきましたし、中退の多くは1年次だったり、その原因としての学校不適応を体験するのもこの時期だったりと、移行に伴う問題は指摘されています。

 

近年の教育改革、特に高大接続改革などでは、高校と大学とが一体的に改革に臨むことが推奨されています。

 

教育現場でも、「学習(者)中心」(「学生中心」という表現は好まない)というコンセプトのもと、高大接続においてギャップを埋めるべく、丁寧な支援活動や初年次教育などの教育活動が行われています。

 

先の記事でも、障害における「個人モデル」から「社会モデル」へと考え方の転換について書きましたが、大学全体の考え方もそうした転換がなされているように感じます。

 

つまり、学生が抱える問題は、学生個人の問題に帰すのではなく、大学側がその問題を生じさせないよう環境を整える、という発想に立つわけです。

 

そうして、環境整備という名の下で、出来るだけ躓かないように段差を下げたり、目の前の石ころを拾ったりするわけです。

 

確かに、発達障害をはじめ何らかの配慮を必要とする学生への環境整備という点において、これまでの大学が十分に対応してきたかというと、そうではないかもしれません。

 

一方で、人の成長・発達には、ある種の「ギャップ」が不可欠だと考えます。

 

ピアジェの認知発達理論における「同化」と「調節」概念では、人は新たな環境や課題に遭遇すると、自らがそれまでに身につけた行動様式や思考の枠組み(シェマ)を用いて同化(取り入れ)を試みる。それで対応できなければ調節していく。そのことによって新たなシェマを獲得し、発達していきます(均衡化)。

 

ヴィゴツキーが提唱した、子どもが自力で問題解決できる現時点での発達水準と、他者からの援助や協同により解決可能となる、より高度な潜在的発達水準のズレの範囲を示す「発達の最近接領域(ZPD)」や「足場かけ(スキャフォールディング)」も、現代の大学教育の在り方を再考する視点を与えてくれます。

 

いずれも、個人が乗り越えるべき課題がある種のギャップとして立ち現れて、それを教師や大人の教育やサポートの力を借りながら克服する、その関係の在り方を示すものです。必ずしも段差を低くしたり、石ころを取り除いたりして躓かないようにするのではなく、安心して躓けるような環境を創るのが教師や大人の役割だと思います。

 

移行に伴うギャップは、成長・発達の最大のチャンスです。

 

高大接続をはじめとする様々な接続が、こうした移行の大切さを損なわずに実現できるようにしていきたいですね。